『転がる石の上機嫌』

転がって、転がって、小さな善きものがあなたに届けられますように。

心意気から伝わるもの

カーネリアンという石の
アクセサリーと出会いました。

5月の始めのころのことです。

こっくりと深く落ち着いた
オレンジ色となめらかな石肌は、
見ているとバタースカッチの
ようにおいしそうで美しく、
首にかけるたび、つい
うっとり眺めてしまいます。

ちなみにこのカーネリアン、
達成したい目標や新しく
始めたい物事がある時に
迷いや不安を取り除き、
勇気を与えてくれるのだとか。

今やすっかりお気に入りで、
毎日のヨガの練習や大切な日に
この石を身に付けて過ごしています。

また、SNSを通じて知った
お店の方も親切で感じ良く、
とても好感が持てました。

今回のカーネリアンは
インドで見つけた石であること、
蝋引きの紐を使用したマクラメ編みで
作られていること、1点1点が手作りで
あることなどなど、丁寧に
商品説明をしてくれたし、
何より幾度かのメッセージの
やり取りの中で石への愛と
自社製品への自信がたっぷりと
そこに感じられたのでした。


* * * * * * * *


そして、それにほどなく
近い別のある日。

この4月に開店したばかりの
新しいワインバーに行きました。
葡萄やグラスや太陽など
ワインに関するシンボルマークを
背景に、店名の入った白い
ワインボトルがくっきりと
浮かび上がる、そんな可愛い
看板が目印のお店です。

県内初のヴァン・ナチュール
(化学肥料や農薬を使用しないで
作るワイン)のお店ということで、
そこに住む県民としては
そのお店に行くことを以前から
とても楽しみにしていました。

私はワインに詳しいわけでは
ないし、知識も全くありません。
でも、美しいグラスに注がれた
ワインが舌を滑り、喉を通り、
体内に落ちていくごとに
身体中の細胞がいっせいに
喜ぶのを感じました。
おいしい、おいしい、
何かが違う!と。

余計なものが取り払われ、
原点に回帰した自然のワインと、
それを作り出す人たちの
愛情と時間。
そんなものを思いながら
味わうと、それはいっそう
愛しく貴重で、滋味深いものでした。

地元の食材を積極的に取り入れ
丹精込めて作られたお料理も、
その丁寧な仕事ぶりがちゃんと
伝わる美味しさで、
やはりおいしい、おいしい!と
身体中の細胞から
嬉しさの泡がぷつぷつと
立ち上っていったのでした。

最近出会ってとくに
嬉しかったものだけを
取り上げてみましたが、
よくよく目をこらして
ぐるり辺りを見渡すと、
心意気のある本当に
良いものだけを作る人、
それを扱うお店などは
意外にたくさん身近に
あることに気づきます。
それは服飾品や食べ物だけでなく、
芸術作品や生活用品など、
多岐にわたり。

作り手が本当に心を込めて
作ったものって、受け取り手
にもちゃんと伝わります。
魂が、伝染するとでも
言うのでしょうか。
それは理屈でなく、
本能でわかるのです。
「うん、これは確かに良い!」と。
身体中の感覚で、びびびびびっ、と。

そして、魂と愛情と心意気で
作られたそれらは、受け取り手側をも
確実に変化させます。
たとえば、高くて素晴らしい
包丁を手に入れた料理人が、
この包丁に恥じないだけの
一流の料理人になるぞ、と
思うように。
綺麗で美しい洋服を手に入れた
人が、その服に見合うだけの
美しい自分でいる努力を
しよう、と決意するように。
美味しいものは体をより
健やかにしてくれるし、
パワーの込められたものは
それを持つ人に元気を
与えてくれます。

内面から滲み出るものが
外面を変化させていくように、
誰かが作り出した丁寧なもので
外面から内面が変化する
こともあるものですね。

それが高いか安いか、
他人の評判の良し悪し、
そんなものに影響されず
きちんと自分に合っていて、
必要で良いものかどうか。
それを見極める感覚を
できるだけ失わないように
してゆきたいと思います。

そして、たくさんでなくていい、
自分をちゃんと引き上げたり
高めたりしてくれる心意気の
あるものだけが、
自分の傍にあってほしい。

最近の私は、そんなふうに
考えるようになりました。



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「レヴェナント」

人は、見(観)たり
聞(聴)いたりして
心に感じるものがあまりにも
大きすぎると言葉を失う
ものなのだということを
この映画を観ることで
久々に思い出しました。


圧倒的なまでに
すさまじい「生」が、
そこにはありました。
生きることの壮絶と激しさ。
厳しい自然と、そして
むごたらしいまでに
人間の持つ知性や理性を
綺麗さっぱり取り去った
人間の野生と本能が
ありました。


シンプルに説明してしまうと、
これは仲間の裏切りに遭って
息子を殺され、
森に1人取り残された
罠猟師のお話です。


でも、よくよく突き詰めていくと
その根底には小さな家族の
深い愛の物語が始まりに
あったのかもしれない、と
そんなことを観終わった後に
感じました。


激しく、生々しく、熾烈な
人間たちの行動と相対するように、
森や雪や川や風などの自然は
どこまでも厳然と
あるがままに存在し、
その対照がとても美しい映画です。


ラストの、
主人公ヒュー・グラスを
演じるディカプリオの
強い瞳がとても印象的でもありました。


その余韻をそのまま残しておきたくて、
エンドロールが終わりきらないうちに
暗い映画館をそっと後にした私。


とにかく「すごい映画」を
観てしまった。
それが一番の感想です。


ただし血や肉がこれでもか、と
いうほど出てくる映画でもあるので、
苦手な方は心して観たほうが
いいかもしれない、ということを
ここにつけ加えておきたいと思います。


「息をしろ。息をし続けろ」

この力強いセリフが
全てを物語っている。
そんなふうにも感じる作品です。




映画データ
【レヴェナント 蘇りし者】

公開:2015年 アメリ
(日本公開 2016年4月)

監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトウ

出演:レオナルド・ディカプリオ(グラス)
  トム・ハーディ(フィッツジェラルド)
  ウィル・ポールター(ヘンリー隊長)
  ドーナル・グリーソン(ブリッジャー)
  フォレスト・グッドラック(グラスの息子)

食べる、という行為について

「食べる」ということに対して、
このところ以前より強く
意識をするようになりました。


今よりもう少し若かったころ、
学生時代や社会人になりたての時などは、
とくに何も考えず
好きなものを好きな時に
好きなだけ食べていました。


気にしていたことといったら
体重や体型のことぐらいで、
それがかえってストレスになって
余計に悪循環を生み出して
いた気がします。


そして、寂しい時や過度な
ストレスを感じた時などにも、
お腹は空いていないのに
詰め込むように物を食べて
しまうことがありました。


チョコレート1箱、
ロールケーキ1本、
あるいはお膳によそったご飯に
たっぷりの醤油マーガリン。
身体によくなさそうな質と量の
食事を、まるで何かの欠落を
埋めるように食べていました。
美味しさなんてほとんど感じず、
今思っても、あれはほんとうに
とても悲しい行為でした。


「食べたものが、体をつくる。
 食べたものが、心をつくる」

こんな言葉に出会ったのは、
ヨガを始めるようになった頃でした。
医食同源”という言葉を意識し始める
ようになったのも同じ頃。


そして、どうせ同じ食事を
摂るのなら、体にも心にも
良いものを選びたい、
そんなふうに考えるように
なりました。


ヨガをする人で、とくにそれを
人に教えたり指導する立場の
人たちは、肉や魚を食べない
もしくは控え目に摂取して
野菜を多く摂る、いわゆる
ヴィーガン”と呼ばれる人が
非常に多いです。
添加物や加工食品の類も
なるべく摂らないようにしています。


それは、ヨガでいう
“八支則”の中の
「アヒンサー(非暴力)」や
「アパリグラハ(不貪)」に
反するからでもあるし、
また身体の健康と純粋性を
保つためにはなるべく
自然で新鮮なものが
良いとされているからです。


これをサットバ(純質)といって、
サットバなものには
野菜・果物・豆類・乳製品・
精白されていないパンや
お米などなどが挙げられています。


ちなみにチョコレート・コーヒー・
紅茶・魚・卵はラジャス(激質)
といって、からだのみを養い
こころを波立たせるもの、
肉・アルコール・玉ねぎ・
ニンニク(匂いの強い野菜?)などは
タマス(鈍質)といって、
体も心も鈍らせてあまり良い
効果のない食べ物とされています。


ところで、こんなことを
つらつらと書いている私は
実際どうなのかというと、
ヨガ的な食事、ほとんど
まったく出来ていません。


肉も魚も卵も食べるし、
チョコレートを始めとした
スイーツ全般も大好きです。
アルコールも摂取します。
家族との兼ね合いもあるし、
なかなかある日突然
ヴィーガンな人に変貌
するのは難しいです。


ただ、意識するのと
しないのとでは大きく
違うようになりました。
食べ物を口に入れる前に、
これが自分のからだにとって
良質なものかどうか。
必要なものかどうか。
そんなことを考えるように
なってから、動けなくなるほど
食べ過ぎてしまうことは
ほとんどなくなりました。
万が一食べ過ぎることが
あったとしても、運動とか
節食でその後に調整する
ようになりました。


そして肉や魚や卵など、
とくに命を強く意識する
食べ物を前にした時は
その命に対して少し思いを
めぐらせるようになりました。
失われてしまったもの、
これから続いていくかも
しれなかったもの達について。
そうすると、自然に食べる量が
減ってきたような気がします。


あるいはもしかしたら、
重ねてきた年齢が関係して
いるだけなのかもしれませんが。
それでもともかく、
今の自分にとってこの食事の
質と量は本当に必要なものかどうか、
そんなことをちらり頭に
よぎらせるだけで、
食生活はだいぶ改善
されていったように感じます。


食事が変わると
体は確実に変わります。
言うまでもなく。
それは当たり前の
ことでもあるのですが。


そして
「体が変わると運も良くなる」
らしいです。
いつかのレッスンの、
いつかの先生の受け売り。


まずは体に良いもの、
自分が欲しているものを
バランスよく。
そして摂りすぎないように。
そんなところから、
始めていけたら良いと思います。


https://www.instagram.com/p/-PvHqIDTE_/
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【追記】
サットバ(純質)・
ラジャス(激質)・
タマス(鈍質)は
食だけではないですね。
人でも、物でも、何にでも。
それはすべてに当てはまり、
世界はそれで回っている。
そんなふうに感じています。

祈り 【創作】

不安で眠れぬ夜を
確かに過ごしたはずなのに
命が消えてしまうかもしれない恐怖を
確かに味わったはずなのに
数年という歳月で
記憶は残れど
感覚は薄れ

幼きころに会った親戚が暮らし
会わなくなった友の故郷があり
縁(ゆかり)ない土地でもないはずのに
なぜか心はわずかしか揺れず
揺れないことに心が揺れる
役に立たないことを
あれこれ考え ふけゆく夜は
やがて  朝になる

無駄に頑張ろうと言う人がいる
「薄っぺらな善意が 何の役に立つ」
と言う人がいる

やたらに前向きな人がいる
妙に無関心な人がいる

募金を始める人がいる
それを見て苦笑する人がいる

着の身着のままで駆けつける人がいる
迷惑だから自己負担でという人がいる

わずかな生活用品を集めて送る人がいる
それを手間だと言う人がいる

慰めるために 詩を作る人がいる
そんなものが何の役に立つかと
見下す人がいる

一心に祈る人がいる
「祈るだけで何ができる」と
笑う人がいる

そんな
有象無象を
どこかの だれかが
上から そっと
静かに
ただ 静かに
眺めている

*  *  *  *  *

この詩は「note」という創作サイトに投稿させていただいたものです。
5年前の震災で受けた大きな傷が癒えきらぬまま、今年4月14日に熊本でまた大きな地震が起こりました。
テレビや新聞を見ていて感じたこと、またtwitterやその他SNSのタイムラインを眺めながら感じたことを詩という形にしてまとめました。

何のために…?
自分でも、よくわかりません。
でもとどめておきたかった。

この詩には続きがあります。
課金制(100円)にしてありますが、売上はすべて募金に充てさせていただいています。


祈り|ミッチェル

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選ぶ、ということについて

カード、というものが昔から好きです。

トランプ、タロット、オラクルカード。
そこには1枚1枚
美しい絵が描かれていて、
それぞれに意味があります。

そして、数ある中から1枚引くと、
必ずその時の自分の心にある何かに
ぴたり、と符合するものが
出てくるから面白い。

それは占いというよりも、
今の自分が一番必要としている
ものを自分自身で探し当てて
引っぱり出しているような感覚です。

そして最近、また新しい
カードを購入してしまいました。
「バガヴァッド・ギーターカード」
というものです。

ヨガの聖典である
「バガヴァッド・ギーター」の内容を
54枚のカードに表したもので、
絵柄も美しく、ヨガの勉強にもなります。

そして何よりも、ほかの
オラクルカードと同じく
その時の状況にあったものが
するり、と出てくるのが魅力です。

気づきだったり、学びだったり、
癒しだったり、叱咤だったり。

ヨガ指導者であり
ヨガ哲学研究家でもある
向井田みおさんが書かれた解説本も、
文章が分かり易くとても丁寧。

毎朝のヨガ前にさっと1枚
引いては解説本を読みながら
ふむふむと納得し、
練習に励んでいるここ数日です。

思うに“選ぶ”という行為は、
とても面白いですね。
何を食べるか、
どんなことをするか、
誰と会うか、何を着るか。

その選択が、その人の
1日を作り出していく。
そしてその1日1日の積み重ねが、
その人の人生を作り出していく。

そう考えると、小さいことでも
大きいことでも、馬鹿には
できないなと思います。
できるだけ真摯に、真剣に、
自分と向き合って、
内なる声に耳を傾けて
いきたいなと思います。

そして、今の自分にとって
最良のものを選び取っていきたい。
人であっても、物事であっても。
そんなふうに願います。

ちなみに。
今日引いたのは「プラサーダ」
というカードでした。

良いことも、悪いことも、全ては
世界からの贈り物であることを
示唆するこのカード。

良くないことがあったとしても、
そこから何を学ぶか、
どう生かしていくか。
そんな心構えひとつで
生き方や運命が大きく変わって
いくのだよ、ということが
カードの解説には書かれていて、
またしてもふむふむ…と読んだのでした。

家族。恋人。仕事。友人。
やりたいこと。やりたくないこと。

私たちは選んでいるようでいて、
実はただ世界から与えられて
いるだけなのかもしれないですね。

自分自身の、からだや命も含め。

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春熊 【創作】

あたたかな金曜日。

ぼくは用意したティーポットを
持って、近所の湖まで
散歩に出かけた。

湖畔には桜の木が
何本も植えられていて、
春になるとそれはもう、
うっとりしてしまうぐらい
美しいピンク色に染まるんだ。

ティーポットには
温かい黒糖入りの
ミルクティーが入っている。

それをこくり、こくりと
飲みながら、咲きだした桜を
ゆっくり愛でて
歩を進めていく。

今年も、咲いたなぁ。
当たり前のことを
思いながら。

ふと、ある桜の木の下の
大きな石が目に入った。

石の上には、なにやら
黒い物体が乗っかっている。
何だろう。近づいてみると、
それはクマだった。

クマが、大きな石に
腰かけている。
そして、哲学的な顔をして
一心不乱に湖を見つめている。

ぼくが驚いて凝視していると、
クマは僕に気がついてこう言った。

「やあ、君。今日は良い日和だね」

さらに続けて言う。
「桜もこうして咲いたことだし」

「今、生きる意味に
ついて考えていたんだ」

クマは聞いてもいない
ことを、自分からぺらぺらと喋る。

「たまにね、ふっとそんなことを
考えてしまう時があるんだよ。
熊にだってね」

少し喋りすぎたと感じたのか、
クマは照れ臭そうにふふっと
笑ってから言った。

「そんなことよりさ、
さっきパンケーキを焼いたんだ。
良かったら、一緒にどうだい?」

「ふかふかで、おいしいよ。
ぼくのはそんじょそこらの
やつよりよっぽど美味いって
仲間の間ではわりあい評判なんだ」

話しているうちに
味を思い出したのか、
クマはずんぐりした前脚の爪を
可愛らしくぺろっと舐めた。

悪いクマではなさそうだ。
じゃあ、せっかくなので
ご相伴に…そう言いかけた
ところで、強い風がぴゅうっ、
と吹いた。
桜の花びらが
ほんの少しだけ舞う。

一瞬だけつぶった目を
開けると、桜の木の下に
クマはもういなかった。

さっきクマが座っていた
大きな石の下には、黒々と
湿った土が広がっていて、
何かの食ベカスのような
ものがいくつか
こぼれているだけだった。

「…エイプリルフール」

ぼくは呟いて
黒糖ミルクティー
ごく、と飲んだ。
そして、また
ゆっくりと歩き始める。


春には、いろんな出来事が起こる。

グラスと水

「いったい体と心は
どちらが先なのだろう?」
というようなことを、
最近よく考えています。


たとえば
心身のバランスを崩して
なんとなく不調な時。
たとえば
何かをしようと思っても
あまり気力がなく
ぼんやりとしてしまう時。


ちょっと体を動かすと
嘘のように単純に
気持ちが引き上がることが
あります。


それとは反対に、
体を動かしたり
外に出たりする
気力すらわかない時も
あります。
動くほど気持ちがつらく
しぼんでいってしまったり。


体と心の関係は面白いですね。
それはまるで双子のように、
あるいは左右の手袋のように、
対になって、ぴったり
背中合わせでくっついて、
互いに切り離せない
関係を築いている。


そういうことを
考えている時、
たまに水を注いだ
グラスをイメージします。


両方をいつまでも
綺麗に保っておくためには、
こまめに水を
取り替えなければならない。
グラスも洗っておかなくてはならない。


でもね、たまには
「汚くったっていいじゃん」
と思ったりもします。
あるいは「何がいけないの?」とか。
だって、人間だもの(byみつを)。
汚れることも
また自然なことだから。


不自然に隠したり、
いつも綺麗なふりをしたり。

そうすると水もグラスもきっと
余計に濁ってきてしまうから、
そんな時はただじっと
「汚れている」ことに
「気づく」ことが
大切だと思うのです。
気づいていれば、
元に戻れる。たぶん。
いつか、しかるべき時に
行動に移せるはずだから。


“ジャッジしない”ということが
とても大切になってきます。


常に前向きで、
ポジティブで、
明るくて、力強く。
そうである必要なんて
まったくないし、
できないけれど、
心の中のどこかに
「善きもの」を
信じている気持は
とても大切な気がします。


生きているのだから、
グラスも水もやっぱり
綺麗なほうが良いですよね。


それは自分のことだけでなく、
自分から広がって
少しずつ少しずつ、
小さくそして大きく、
周りへと広がっていく
ことのはずだと
信じています。


「心は、形あるものではなく
ただの現象」。

ヨガの勉強をしていて
最近覚えた言葉です。
体のことだけでなく
心も整えてくれるから
ヨガは楽しい。
ヨガは奥深い。
…なんか、熱心な
新興宗教信者みたいに
なってしまったけれど。


いや、でも大事なことです。
“心”という名の、ただの現象に
惑わされないように。
どうぞ振り回されないように。


私のグラスと水は、
今どんな状態なのだろう。
そして、あなたのグラスと水は
今どんな状態なのでしょう。


とても難しいし、もしかしたら
一生できないことかも
しれないけれど、
少しずつ、少しずつ練習をして
自分の持つグラスと水を
なるべくいつまでも
綺麗に保てるよう、
そして汚れたらすぐに
取り替えられるように
なれると良いですよね。


https://www.instagram.com/p/BDAcRjKDTNO/